まつりごとにはうらがある。

祭りの時期になってきました。日本全国がお祭り騒ぎになって、熱くなる時期ですね!

それぞれ地元や今いる街で、昔から伝わる伝統的なお祭りが行われます!ちなみに、私の地元では、大蛇のお祭りがあります。

そんなお祭りのお話です。
えっ!そうだっんだ…となるお話です。
どのお祭りも、奥が深くて、いろいろな意味のあることや、壮絶な事実が隠されているはずです。

それを知ってからお祭りに参加したり、観たりする今年のお祭りは、いつもとは違うお祭りになります。大切なことがそこに隠されています。

お祭りの意味を知ったあとに、自分が何を感じるのか?試してみてください。今までに感じたことがない、とても重要なことを感じるはずです。

ここからは、梅若基徳理事のフェイスブックから抜粋しています。

実は日本の三大祭は「怨霊」をお祀りして、鎮める為のものなのです!!

菅原道真、 平将門、 
そして最強の崇徳天皇。。。
次点に早良親王でしょうか。。。

その菅原道真、平将門、早良親王を祀った「お祭り(お祀り)」が日本三大祭の天神祭、神田祭、祇園祭という恐ろしさ。。。

菅原道真 (すがわらみちざね)

天神祭の学問の神様と崇めたてまつられている菅原道真。でも実は、天神(雷神)と学問の神として太宰府天満宮や北野天満宮に祭られている怨霊。

道真は、中流の公家に生まれながら、醍醐天皇の父・宇多天皇に重用されて、右大臣に昇進し右大将を兼任、従二位まで昇進する。が、それを快く思わない藤原氏や他の貴族に謀られて大宰府に左遷され、子供四名も流刑にされた。

菅原道真の死後、遺体は牛車に乗せられて運ばれることとなりましたが、途中にあった「安楽寺」の前で突然動かなくなります。仕方なくその場に埋めて祠を建てて祀ることにします。

これが「太宰府天満宮」のもととなります。

そして能「雷電」のストーリー。
死んだ直後、比叡山延暦寺の座主法性房尊意の前に菅原道真の霊が現れ、

「今から私を左遷に追いやった者達へ復讐に行きますが、あなたに助けを求めても応じないでください」

と告げますが、法性房尊意は

「しかし天皇が直々に3回もお願いされれば応じない訳にはいきません」

と答えます。
すると菅原道真の怨霊は食べたザクロを炎にして吐きだし、自分の怒りをあらわにして去ります。

その後異変が相次ぎ、まず菅原道真を左遷させる陰謀に加わった中納言「藤原定国」が40歳の若さで急死。

左遷が決定した際、「醍醐天皇」に直訴に駆けつけた「宇多上皇」の行く手を阻んだ「藤原菅根」が雷に打たれて死亡。

菅原道真を左遷に追いやった張本人
「藤原時平」の両耳から蛇に化けた菅原道真が現れ、その蛇を退散させるために色々と祈祷させるが全く効果は無いどころか逆に蛇となった菅原道真に一喝されて祈祷師は退散してしまい、藤原時平は狂死。

「源光」狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。

醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった「保明親王」が21歳の若さで急死。

保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった「慶頼王」が5歳で死亡。

藤原時平の息子達も幼くして亡くなってしまいます。怨霊を鎮めるためと、左遷するという全ての書類を焼き捨てますが、その火が周囲に燃え移って広がり、その場にいた僧侶や役人を焼死。

さらには朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。
この落雷事件を境に「醍醐天皇」は体調を崩し天皇の位をわずか8歳の皇太子「寛明親王」に譲り「朱雀天皇」が即位します。

そして譲位の1週間後、醍醐天皇はわずか46年の生涯に幕を閉じてしまいます。

またその後、藤原時平の長男「藤原保忠」も物の怪に取り憑かれ、僧に祈祷をさせたが、その場で狂死します。

そして菅原道真は「早良親王(さわらしんのう)の怨霊」と肩を並べる「最強の怨霊」として平安京の貴族達に恐れられます。

これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、子供たちも流罪を解かれ京に呼び返された。

これにより、道真が天神(雷神)として祭られるようになる。さらに、真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになった。
なお、道真を祀る神社は、初めて天皇ではない人間が、天皇を祭る神社のみが付けられる「宮」の位を授けられている。

 平将門 
平将門は、築土神社(東京都千代田区)や神田明神(東京都千代田区)に祀られている。

桓武天皇の五代後の子孫。
下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争に端を発し、関東諸国の国衙を襲い、印鑰を奪った事から朝廷から敵と見なされた。

京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し、新皇を名乗った。朝廷からの独立国建設を目指したが藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。

 大田道灌は江戸城を築城し、さらに江戸の都市計画の基本を策定したとされるのが徳川家康、徳川家光、天海僧正の三人です。

江戸城に居する徳川将軍は、自己の権力を江戸市民に印象付けるために、敢えて鬼門に平将門を祭る神田明神を置き、江戸総鎮守とし、裏鬼門には赤坂の日枝神社、増上寺を配しました。
そこで、江戸という安定した社会の百万都市を築くことができたといわれております。 

崇徳天皇
崇徳天皇は、白峯神宮(京都市上京区)に祀られている。最強の怨霊です。

父親の鳥羽天皇ですが、白河法皇(祖父)と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで嫌っていたという逸話が記されています。

そして白河法皇は鳥羽天皇を20歳の若さで退位させ、わずか5歳で崇徳天皇は即位しました。

これにより崇徳は鳥羽上皇の恨みを買います。
天皇に即位はしたけれど父の鳥羽上皇は崇徳に譲位を迫り、側室の子を近衛天皇として即位させました。

天皇が弟では将来の院政は不可能であり崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となりました。

そして「保元の乱」にて崇徳上皇がクーデターするらしいという噂で反乱の濡れ衣を着せられ、讃岐(香川)に島流しになりました。

その軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い五部大乗経を作り、京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出しますが、後白河天皇は疑ってこれを拒否し、写本を送り返します。

これに激しく怒った崇徳は、舌を噛み切って写本に

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

これは、皇を民の地位に落し、民を皇の地位へ引き上げるということです。 

そして

「この経を魔道に回向す」

と血で書き込み、後に生きながら天狗になったとされています。

崇徳が讃岐で崩御した際も後白河天皇はその死を無視し朝廷による葬儀はなかったのです。

その後、様々な不幸が後白河天皇周辺で頻発。

23歳という若さでの二条上皇の病没、延暦寺衆徒の強訴、天然痘の流行、大火、配所暮らしのさなかには平治の乱もありました。

五部の大乗経の受け取りを拒否した藤原信西は殺され、保元の乱で後白河側に付いた源義朝も殺されます。

都の人々は、崇徳上皇と藤原頼長の怨霊のなすところと怖れおののきました。

朝廷は怨霊を鎮めるため「崇徳院」の諡号を贈りましたが、それでも凶事は続き、
平清盛による後白河上皇の幽閉、飢饉などによる平安京の餓死者は42300人に達したといいます。

そして保元の乱で後白河天皇側についた平清盛率いる平家一門の滅亡。

平清盛の孫にあたる安徳天皇は源平合戦により壇ノ浦で歴代最年少の8歳で崩御し、そして鎌倉幕府が成立しました。

明治天皇は即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建し現在に至ります。
 
他の怨霊は「祭」という事で人々が忘れず、崇め奉り弔っておりますが、崇徳天皇のみ大きな大祭がないので、是非とも作って欲しいです!

早良親王
 現代に残る仏教行事のほとんどが中国やインドを起源にするものであるにも関わらず、めずらしい事に、この一連のお彼岸行事は中国にも、インドにもありません。彼岸会は日本独特の行事なのです。

それは、このお彼岸法要の起源が、もともと、早良親王の霊魂を鎮めるための行事であったからなのです。

延暦二十五年(806年)の2月の記録に、「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間『金剛般若波羅蜜多経』を崇道(すどう)天皇のために転読させた(日本後紀)」とあり、これが日本の歴史上最初のお彼岸法要の記録です。

この延暦二十五年という年は、桓武天皇のご命日が、この年の4月ですからギリです。

ところで、先ほどの崇道天皇。この聞きなれないお名前の天皇をご存知ですか?

桓武天皇は第50代の天皇。
その前の49代は、桓武天皇のお父さんの光仁天皇で、桓武天皇の次の51代は桓武天皇の息子の平城天皇・・・。

この崇道天皇という名前は、歴代天皇の系図のどこにもありません。ですから、崇道天皇には、第○代というのも無いのです!!!!!

実は、この崇道天皇は、桓武天皇の弟の早良親王の事で、崇徳天皇、菅原道真、平将門にも負けず劣らずの大怨霊なのです。

早良親王は、十一歳で出家し仏門に入り、二十一歳で正式に僧侶となりますが、父が光仁天皇として即位することになり、一度は僧侶となった早良ですが、親王として遇せられます。

その後、兄が桓武天皇として即位し、早良親王は皇太子として立てられます。

天智天皇の息子・大友皇子と、弟の天武天皇の間で皇位を争ったあの壬申の乱以来、勝者である天武系の天皇制が敷かれてから約100年。

久々に天智系の血筋に巡ってきた天皇の座についたのが桓武天皇。

天武系の色を消すために、桓武天皇は長岡京を造営し、延暦三年(748年)に、まだ造営途中の長岡京への遷都を強行します。

天皇の側近には藤原種継がおり、実権を握っていましたが、何故か早良親王の側近である大伴家持が東北に左遷されて死んでしまいます。

そのひと月後、今度は新都の造営長官であった藤原種継が暗殺されるという事件が起こります。種継は、桓武天皇にとっても、寵愛していた部下でした。そして、その犯人として名前があがったのが、藤原氏と対立していた大伴一族・・・。

 そして、その背後に弟・早良親王・・・。 
この頃すでに、前天皇・光仁天皇の遺言で、皇太子には桓武天皇の弟・早良親王が立っていたのですが、桓武天皇としては息子の安殿(あて)親王(後の平城天皇)に後を継がせたいと言う親としては自然な感情かも知れません。

 大伴氏の関係の者が斬罪琉罪となります。
 早良親王にも謀反に加担した疑いをかけられ、皇太子の地位を剥奪、淡路島に流されることとなります…。 
もちろん、これは「疑い」があるだけで、実際の証拠となる物は、何一つ無かったのですが、弟を追い落としたい桓武天皇にとっては絶好のチャンスです。

早速、早良親王の皇太子を剥奪し、寺に幽閉します。当然、早良親王は無実を訴えて、抗議の断食を決行。それでも、疑いは晴れず、早良親王は淡路島へ流されますが、淡路島へ着く前に餓死してしまうのです。 

邪魔者はいなくなり、ちゃっかりと息子を皇太子にして、桓武天皇はわが世の春を迎えます。
しかし、早くも異変は3年後に起こります。
延暦七年(788年)に、桓武天皇の夫人・藤原旅子が亡くなったのを皮切りに、すぐあとには妃が亡くなり、翌年には母が亡くなり、さらに二年後には皇后と妃の二人が亡くなります。

つまり、わずか3年間の間に四人の奥さんと母親の5人が亡くなったわけで、もう、誰も疑う事なく、早良親王の祟りである事を口にするようになります。

しかも、この後、せっかく皇太子に立てた息子・安殿親王まで病気になってしまいます。

桓武天皇は次は自分か!と恐怖におののく毎日です。淡路島にある早良親王のお墓のまわりに堀を張り巡らして、怨霊が外に出ないようにしますが、そんなもの効果があるわけもなく、飢饉・天然痘が都を襲い、干ばつも続き、伊勢神宮が放火により一部焼け落ちたり、淀川の大反乱があったり、富士山は噴火し、東北地方にも大地震があったりと物凄い災難が続き、すっかり参ってしまった桓武天皇は、淡路島に勅使を派遣し、早良親王の霊に陳謝します。 

それでも相次ぐ近親者の死を受けて、桓武天皇はついに、早良親王に「崇道天皇」の位を贈ります。 

いよいよ桓武天皇は、まだ、できあがってもいない長岡京を捨てる決意を固めます。

そして、今度は、風水・占い・迷信ありとあらゆる物を駆使して、完璧に怨霊を防げる土地に都を遷すのです。それが、現在の京都平安京です。

その甲斐むなしく桓武天皇も病に倒れ生涯を終えます。皇太子が即位し平城天皇となりますが、在位期間はわずか三年と短かく、そのために鎮魂のため各所に祀られます。

京都市の上御霊神社は、早良親王・井上大皇后・他戸親王など、政界の闇に巻き込まれ非業の死を遂げた人物を祀っているが、崇道天皇の神霊を祀ったのが最初です。

同じく下御霊神社にも、伏見区の藤森神社にも早良親王が祀られています。また、崇道天皇八嶋陵がある奈良県には、小さいながらも崇道天皇社、御霊神社がいくつもあり、全国に点在しています。 

それらの怨霊や疫病を鎮める行事が
「祇園祭」で、お彼岸法要のおおもとも早良親王の怨霊を鎮めるための行事だったのです。

なんとも恐ろしや恐ろしや。。。



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