若の一字を賜る「蘆刈」の舞い

3月16日 大槻能楽堂13時公演 

「蘆刈」は、応仁の乱も治まった文明13年(1481年)正月20日、梅若基徳の先祖梅若太夫景久が禁中で「蘆刈」を舞い、後土御門天皇より「若」の一字を賜り、以後「梅若」と改姓された謂れのあるとても大切にしている曲です。

公演は13時より「蘆刈」は15時20分から始まり、16時45分に終了いたします。

梅若家の歴史

「梅若家は、丹波猿楽の出身で応永年間(1394~1428)の演能記録が残っています。文明13年(1481)梅津景久16歳のとき、後土御門天皇に禁裏に召され そのとき「芦刈」を舞い、「若いのによく舞ったと」若の字を賜り名を梅若となりました。

織田信長は梅若大夫を後援し、豊臣秀吉が梅若大夫を観世座のツレ家としたので、以後梅若家は観世座の一員として活動しました。明治維新後、梅若実が能を復興し観世流の代表的な演者として活動したため、梅若流独立問題が起きましたが昭和29年に解決、現在は観世流に復帰し六郎家、万三郎家、猶義家を中心に活動しています。」

http://www.umewaka.info/annai/no-kaisetu/noh2.html


梅若家という名について

「梅若家は橘諸兄(奈良時代の貴族。聖武天皇の后であった光明皇后の異父兄)を始祖とする伝承を持つ非常に古い家柄である。

本来梅津姓であったというが、1481年(文明13)梅津景久(梅津姓の二十八世)が後土御門天皇の前で<芦刈>を舞い御感を得、「若」の字を賜り梅若と改姓したという。
丹波を拠点とする丹波猿楽でありながら、室町末期ころに大和猿楽に再編され、江戸時代には観世座ツレ家という家柄で、公儀に<翁>の千歳をつとめる立場となった。」

 梅若家の歴史は能楽の近代化とともに 明治維新に大きく様相を変えた能楽界を牽引してきた。2010.12.12  淡交社「梅若六郎家の至芸」



3月16日(土)大槻能楽堂にて

「蘆刈」梅若基徳

また新たな歴史が刻まれる記念すべき公演です。梅若家の初世より受け継がれてきた能のなかでも特別な「蘆刈」をみることができます。ここでしか感じることのできない梅若家の伝統と歴史をみることができます。


※当財団限定チケットは、残りわずかのお席となっております。

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2.能の役の種類と流儀についてシテ方能を上演するうえで最も多くの役を担当するのがシテ方です。能の主役であるシテ、及びシテツレと呼ばれる役もシテ方が担当します。また、能によっては子供(子方)が登場しますが、それも基本的にはシテ方の子供が勤めます。斉唱部分を担当する地謡もシテ方の担当です。大道具(塚、車など)も一回の公演ごと作ります。 また、舞台の後座に控えて装束の乱れを直したり、小道具を渡したり、舞台の進行を助けたりする後見もシテ方の仕事です。観世流観世座は、観阿弥に始まり、「観世」という名称も観阿弥の幼名に由来します。観阿弥の子世阿弥が二代目で、能楽師のバイブルともいえる「風姿花伝」などの伝書を残しています。有名な言葉に「初心忘れるべからず」などがあります。能の特徴である複式夢幻能を作り出したマルチスーパースター。世阿弥の子元雅が早生したため、おいの音阿弥が継ぎました。室町時代に幕府の保護を受けていたのは、観世座だけで、江戸時代には四座の筆頭を占めた。現在は五流最大の勢力をもち愛好者が最も多いです。梅若家宝生流宝生流の祖は観阿弥の長兄宝生大夫。宝生は大和猿楽の外山座(とびざ)に加わっていましたがd、外山座は座の中心的役者宝生大夫の名を取って宝生座と呼ばれるようになったらしいです。宝生座は室町時代に興福寺の薪能や春日神社の若宮祭りに参勤していましたが、系譜は明らかでないようです。室町時代には小田原の北条氏に保護されていました。江戸時代には、能を溺愛した綱吉が、宝生座を贔屓にし、加賀藩が宝生流中心になったのもこの時期です。現在は観世流につぐ勢力をもっています。金春流遠祖は秦河勝(はたのかわかつ)、下掛り諸流(観世、宝生の上掛りに対し、金春、金剛、喜多流の三流をいう。)の中で最も古い家柄であります。奈良を本拠地とし、興福寺、春日神社とのかかわりも深いです。また、実質的な流祖世阿弥時代の金春権守(ごんのかみ)は「申楽談義」にもその名を留めています。その後も、世阿弥の女婿金春禅竹、禅鳳などの能役者を輩出しました。江戸時代には、観世流、宝生流に押され気味でしたが、古式を守り続け今に至ります。金剛流金剛流は古くから法隆寺に属した猿楽座の坂戸座に参加する形で形成されたらしいです。世阿弥時代の金剛権守は、重厚で幅のある役者と評されています。室町から江戸時代には、流勢があまり奮わず、7

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