丹波 赤井直正を題材に

新作能「直正」丹波市在住の能楽師上田敦史氏が丹波市の歴史である赤井直正を題材に台本を書き上げました。

明智光秀を退却させた「赤鬼」 赤井直正の生涯を追う/兵庫・丹波市 | 丹波新聞

おじを殺し城を乗っ取る破天荒ぶり 戦国武将・明智光秀を主人公とするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が2020年に放映される。織田信長の家臣として数々の戦で指揮を執った光秀。そんな歴戦の雄を、命からがらの退却に追いやった勇猛な武将がいる。兵庫県丹波市の山城「黒井城」の城主・赤井(荻野)悪右衛門直正だ。「丹波の赤鬼」と呼ばれた破天荒な武将・赤井直正の生涯を追った。 直正は1529(享禄2)年、現在の同市氷上町にあった「後屋城」の城主・赤井時家の次男として生まれた。子どものころの名前は才丸。幼少のころから度胸がすわっていて、知恵と勇気があったという。 その後、同市春日町の「朝日城」を拠点とする荻野家の養子に入り、荻野の名字になった。1554(天文23)年、黒井城主だったおじの荻野秋清を殺して城主の座を奪い取る。この時から「悪右衛門」を名乗るようになった。 直正は氷上郡(現在の丹波市)を中心に力をもっていたが、1565(永禄8)年、内藤宗勝との戦に勝ち、丹波国で一番の実力者になる。このころ、信長が天下統一をめざして丹波国にも勢力を伸ばしてきていたが、当初は直正も信長に従った。しかし、隣の但馬国から丹波国へ攻めてきた山名氏が、信長に助けを求めたことがきっかけで、信長とは敵対関係になった。 写真・兵庫県丹波市の中川英明さんが描いた赤井(荻野)悪右衛門直正のイラスト 策をめぐらし光秀を撃退 信長は1575(天正3)、光秀を総大将とする「丹波攻め」を開始。この年の11月に黒井城を攻撃した。黒井城は落城寸前だったが、1576(天正4)年1月、明智軍にいた多紀郡(現在の篠山市)の八上城主・波多野秀治の軍が赤井軍に寝返ったことで、状況が一変。明智軍は大打撃を受け、光秀は命からがら逃げ帰った。直正は波多野氏と密かに手を結んでいたといわれ、この戦いはのちに「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれている。 甲斐国(現在の山梨県)の武田氏の軍学書「甲陽軍艦」に「名高キ武士」として「丹波ノ赤井悪右衛門」と記されるほど、直正の強さは知れ渡っていた。しかし、1578(天正6)年3月、直正は病気で息をひきとる。大将を失った黒井城の勢いは衰え、翌年8月、再び攻めてきた光秀に敗れた。こうして丹波平定戦が終わり、丹波国は光秀がおさめることになった。

丹波新聞

~あらすじ~

 ある日、柏原八幡神社の神主が、かの丹波攻めで犠牲になった人々のために神前で祈りを捧げていると、いかにもやつれた男が病平癒の祈祷を求めてやってきます。祈祷を受け、元気を取り戻した男はただならぬ気配を発して、自分は赤井直正の霊であることを告白すると、神主に今から黒井城跡に来るように言い残し、霧に紛れ消え失せます。霧の黒井城で繰り広げられる勇ましい戦の有様が見どころですが、武士の宿命や悲哀、人々の祈りによる修羅道からの救済がテーマとなっています。



新丹波猿楽座始動式を開催します。

 丹波市が誇る歴史・文化・人物・特産品をテーマに新作能、新作狂言に書き下ろし、プロの能楽師と共に地元の子供たちが稽古を行い、上演していくという丹波市初の「能狂言劇団」が誕生しました。

 来たる平成31年3月27日(水曜日)14時に「新丹波猿楽座始動式」を開催します。

https://www.city.tamba.lg.jp/…/shinntanbasarugakuzashidoush…

写真・兵庫県丹波市の中川英明さんが描いた赤井(荻野)悪右衛門直正のイラスト


日本伝統芸術文化財団

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